東海道線で通勤できない日誌~Season 5~

これから東海道線で通勤ができるんだかできないんだか…

6月22日(月)0659大磯発ー0813東京着&1917東京発ー2026大磯着

 いあー、昨日自分で作って食べたこってりスープ、まぢで悪魔のスープでしたっ!湘南平登ったの完全にチャラ(笑)体重がさらに増えるという暴力的なスープっ!びっくりいたしました。あのレシピはしばらく封印…酸辣湯を極めなければいけないですね…はい。

 

 さてさて、今日も出勤日でございました。

 なんだかんだで、電車にも人が増えてきていて久しぶりに…っというか、このコロナ禍以前ぶり、4カ月ぶりくらいに、電車で立って帰ることになりましたよ。在宅勤務が増えてる、在宅勤務も可能ってなっているのに、このザマですから、推して知るべきですよね、私たち日本人の頑なさってのは、私も含めて。もう少し自分の出来る範囲で(私の部下含めて)在宅で出来るような体制をしっかりと構築せねばと心に誓いましたよ。

 

 ところで、今日のお題は「ネット右翼

 正直私はインターネット黎明期からいわゆる保守派…言い方を変えると「ネット右翼」的な論陣を張ってきました。今は亡き"日本茶"掲示板は専らROM専でしたが、こちらも今は亡きYahoo掲示板、ログだけは今でも読める"下熱"での新しい歴史教科書にまつわる議論とか、なんだかんだ20年近くそういう考え方で過ごしてきています。そして、多分、その根本にあるのが「相対主義」的な考え方、だと思うのです。

 

ja.wikipedia.org

 

 自分の言葉で綴るのが億劫なので、wikipediaから引用すると、

 

相対主義が寛容と両立するか否かは、倫理学における論点の一つである。問題の所在は、事実あるいは価値観の相対性を認容した後で、「自己の意見を他者に押し付けても良い」という主張(これも不寛容という価値観の一種である)をそこから除去することが可能なのかという点にある。つまり、相対主義の前提から言えば「寛容と不寛容は相対的関係にあり、どちらかが絶対的に正しいわけではない」と言わねばならないのかという疑問である(注:これは、いわゆる寛容のパラドックス、すなわち寛容主義は不寛容主義に対しても寛容でなければならないのかという論点とは異なる。寛容のパラドックスは、寛容主義内部のジレンマであって、相対主義との関係において問題とされているのではない)。

 

ってのが、個人的に一番のポイントで「どちらかが絶対的に正しいわけではない」っと言い切れるか否かを、私はいつも考えているような気がしています。

 ですので、戦前の日本が一方的に悪かった、悪だっと決めつけられると、いやそうはいっても当時の欧米は…だなんて相対化してしまうし、今の日本の状況を欧米の価値観から差別的だと指弾されても、いや、日本にはあなた方の国のような人種差別はないでしょうにと、思ってしまうのです。

 ただ、そうは言っても、絶対的な評価軸で、戦前の日本が悪かったこともあるし、今の日本に差別が全くないと言い切ることができないのも間違いではなくって、それはそれで是正していかなくてはいけない、でも、今の価値観で過去を裁くのは意味がなくない?っと、そこは相対化する…なんかそういう考え方をしているんだろうってのは、なんとなく客観的に感じています。

 その一方で、なんか今の"ネット右翼"的な言説にはついていけないってのも事実なのです。例えばNBAの八村塁選手が、BLMに賛同する発言を批難するTwitterのリプライとか…そんなリプライする人って、差別主義者じゃんって、私は思います。八村選手がかつて日本で受けた差別は、八村選手が語った、書いた言葉からみて、あったことでしょう。だからこそ、アメリカにいてBLMに賛同する、平等を勝ち取るために行動する、それは当たり前のことなのに、八村選手がBLMのデモに参加したニュースにぶらさがってるリプライとか、酷いなって。

 なんかそうやって考えていくと、私自身相対主義的な価値観で生きてきているのですけれど、自分自身の立ち位置ってのは絶対的な場所があって、それが世の中が左右に動くたびに、ネット右翼と呼ばれたりリベラルと呼ばれたり、ふらふらしているんだなって、この年になって今さらながら思ったりしつつ、です。

 よく言われることだけれど、改憲を望む現政権含む自民党は実は革新で強硬な護憲を主張する社民党共産党は保守だっていうパラドックスと同じことで、相対主義と絶対主義がまぜこぜになった矛盾に満ちた世界に私たちは生きているんだなって思うと、答えが見つからないことが難しいことではなく、答えが見つからなくって当たり前、答えを見つけようとするよりは、よりよくその場その場でつじつまを合わせながら行動していくことが、私の価値観なんだなって自分自身を理解することができます。

 では結局"ネット右翼"って何なんだろって考えるとやっぱりそれは答えはなくって、"ネット右翼"を批判する人たちから相対的にミギにいるからそういう風に言われているだけで、何か確固たる絶対的な定義があるわけでもないっていう当たり前の結末になってしまい、私自身のこの20年くらいの言説は別にして、他者への寛容性を最大限持ちたいっていう自分の信条はやっぱりリベラルだよなと思うと、ネット右翼的な言説とリベラルな行動ってのは相反するものではありません。

 では結局、何故、ネット右翼だのリベラルだのそういうレッテル貼りがなされるかというと、そうやってレッテル貼れば議論で勝った気になれる、ってだけのような気がしていて、んじゃ、自分自身なんでもいいじゃんねっと、自分が何を考えているのかが大事でどれだけ寛容性を持てるかってことをテーマに、行動していこうと改めて思いました。